カウンセラー紹介

カウンセラーとして

民間企業勤務と個人事業の経験があります。会社員時代にメンタル不調(診断はうつ病)から休職・退職の経験があります。この経験を活かしてカウンセラーになろう…と考えたことは一度もありません。

今も、人生経験を活かすという考えはありません私の経験私個人のものに過ぎません。私とあなたの人格や背景は異なります。私の成功体験は私にのみ有効です。あなたに適用すると、悪化させることさえありえます。

一方で、人生経験は役に立っています。他人を理解する物差しは自分自身です。役に立つか立たないかの白黒思考ではなく、自分自身も道具として活用できる柔軟さが大切と考えています。

資格

所属

理念(というほどのものではありませんが)

大きなことはできません。笑顔を一つでも増やすお手伝いができれば、私のカウンセラー人生は成功だと思います。

自信(自尊感情、自己肯定感)がライフワークです。自信は人間関係の中で育ち、傷つきもします。人間関係のスタートは家族であり、家族の核は夫婦です。夫婦カウンセリングに力を入れている理由でもあります。

ある来談者さんに当カウンセリングルームを選んだ理由を聞くと、「(他の方がアップした)YouTubeで山崎さんを見て、何となく安心な感じがしました」と返ってきたことがあります。それで自分で撮ってみました。ぎこちなくて恥ずかしいのですが、せっかくなので公開しました。

肉付きが良かった頃の私

最近の私

カウンセラーとしての研鑽

カウンセリング業を始めて痛感したのは、スキルを学ぶだけでは足りないことです。

スキルには即効性があります。スキルを学んで練習を繰り返せば、「心が軽くなりました」と満足していただけるカウンセリングは、1,2年(500〜1,000時間くらい)でできるようになると思います。

しかし、そこから先へ行くには、スキルだけでは足りません。

理論は基礎であり、地図でもあります。基礎があっての応用です。地図があるから軌道修正できます。

高校球児がプロ野球選手になると、ほとんどの選手は数年間、二軍で基礎作りを行います。後に飛躍するための土台作りです。

理論を学ぶのも同じです。それらを学んで即、カウンセリングの能力が向上するものではありません。しかし、長期にわたって成長するためには欠かせません。

大学院で学ぶことも考えましたが、生活状況がそれを許しません。次善の策として、学術団体で学ぶことを選びました。所属する学術団体のスーパービジョンを継続的に受けています。また、学術団体の研修を定期的に受講しています。

私の物語

カウンセラーとしての私ではなく、一個人としての私を赤裸々にしてみました。読み返すと顔から火が出そうになりますが、個人としての私を知っていただくことも安心感につながると考えて、カミングアウトしてみました。

大阪生まれの大阪育ちです。大阪府北部の北摂と呼ばれる地域で暮らしています。妻と3人の子どもがいます。

子どもたち3人は全員、中・高で吹奏楽に打ち込んでいました。地元の中学の吹奏楽部がとても優秀で、入学式の演奏で家族全員が虜になってしまいました。子どもたちは6年間、吹奏楽部づけになりました。親は幸せな時間をもらいました。

幼少の頃

気が弱くてケンカも弱かった幼少期(今も変わりませんが・・)。わが子がケンカに負けるのが悔しかったと、父にたびたび言われました。

小学校の中学年くらいまでだったと思います。親戚の集まりなどで父がよく話したエピソードがあります。

泣かされて帰ってきた私に父がおもちゃの刀を持たせて、これで仕返ししてこいと命じた。逆に返り討ちに遭い、刀を取られて帰ってきた。ついに父は、息子が強い男になるのをあきらめた。

これは長い間、私に影響をもたらしました。私も息子に父と同じことをしてしまいました。「やられたら、やり返せ!」と幼い頃の息子によく怒鳴っていました。ただただ、申し訳ない想いしかありません。

息子は2019年に社会人になって家を出ました。それ以来、コロナ禍もあって一度も帰ってきません。直接話をすることもありません。息子の気持ちはとてもよくわかります。私も父と話していいかなと思えるようになったのは、50才を過ぎてからだと思います。

なので、私から息子に何かを求めるつもりはありません。息子に何らかのサポートが必要になれば、全力でサポートするだけです。それ以外を求めることはありません。

話を戻します。ケンカに弱い自分が嫌いでした。中学生の頃から、強いフリをするようになりました。弱い自分を否定していました。

小学生の頃

塾へ行かず、家でも勉強せず。授業は真面目に受けていたと思います。成績は常にクラスで3番以内でした。しかし、それも4年生まででした。

5年生から塾でバリバリ勉強してるクラスメートと仲よくなりました。授業中は彼らと遊びます。放課後、彼らは塾に行きますが、私には塾がありません。成績は急下降しました。

当時、スポーツといえば野球でした。誘われて少年野球チームに入りましたが、常に補欠でした。運動能力は平均以上だったと思います。しかし、競争心がありませんでした。レギュラーになりたい気持ちもありませんでした。父はそれも悔しかったようです。

東京ボンバーズの影響でローラースケートが大流行していました。得意でした。たぶん、町内で最も上手なレベルだっと思います。これは自信ありました。

ここまで書いて思いだしたのは、母が父を何かで怒ったとき、父はよく私に責任転嫁しました。決まって「孝(私のこと)が・・・」と言いました。母は無視していましたが、一度だけ「孝のせいにするな」と言ったことがありました。

父が怖かったので何も言えませんでしたが、心の中では怒りを積み重ねていました。20代から40代くらいまででしょうか、小さなことですぐイライラしていた時期がありました。積み重ねた怒りの持って行き場を探していたのかもしれないと分析しています。

父は私を登山や釣りに連れて行きました。釣りは中学生まで熱中しました。大人しかいない釣りクラブに入会しました。同級生とテントを持って山に入って、数日間渓流釣りをしたこともあります。

振り返ると、野球も釣りも、大して好きではなかったと思います。父が喜ぶからとか、父に受け入れられたいとか、そのような気持ちでやっていたのだと思います。

具体的には書きませんが、あのときの息子の言葉や行動は、父親を求めるサインだったのだろうと思います。応えてあげられなかったのは、今思い返しても痛恨の極みです。

中学生の頃

友人に誘われるがまま、何となくバレー部に入部しました。2年生の時、ある技術書を読んだのをきっかけに急激に伸びました。3年生になってレギュラーになりました。一度レギュラーを経験すると、維持したい気持ちから競争心が芽生えました。

美術の成績が常に2でした。授業態度が悪いわけでも、ふざけてやっていたわけでもありませんでした。それでも、ほとんど2で、良くて3でした。

女嫌いと言われてました。嫌いなわけではなく、極度に内気だっただけです。本当は女の子と仲良くしたかったけれど、傷つくことや他人の目をひどく怖れていたと思います。

高校生の頃

ジョン・マッケンローをはじめて見たのは、1979年の全米オープン決勝でした。当時はコナーズ・ボルグ時代で、スマートなベースラインの打ち合いが主流でした。マッケンローの荒々しいプレーに強い衝撃を受けてファンになりました。

高校ではテニスをやりたいなあと思っていました。同時に強さへの憧れから、空手をやりたい気持ちもありました。

入学式の数日前、他校へ進学した中学のバレー部員が、春休み中からバレー部の練習に参加していると聞きました。彼らに何をしてるんだと煽られました。感化されて、入学式当日にバレー部へ顔を出して入部を決めました。

大阪府でベスト8まで勝ち進んだ強いチームでした。レベルの違いを見せつけられました。

顧問がすべてを仕切る中学と違って、生徒の自主性に任せる運営でした。顧問はほとんど顔を出しません。その代わり、OBがちょくちょく顔を出します。厳しいです。苦手でした。

3年生は夏に引退します。2年生の夏に主将に指名されました。自分なりに精一杯やったと思います。3学期の終わりにもらった通知表に、「クールな男がどんなときに燃えるのか、1年間じっくり見せてもらいました」と担任が書いていました。

ストイックに取り組み輝いていたとは思います。しかし、考えもなくただがむしゃらにやってただけでした。身体をいじめたら、やった気になりました。試合前に疲れ切っていたこともありました。

自分本位でリーダーシップに欠けていたと思います。厳しいだけで指導力がありませんでした。他の部員は後輩たちを関係を築いていましたが、私は単に先輩後輩の関係でしかありませんでした。

ある試合で、感情を爆発させてしまい、チームがバラバラになったことがあります。それをきっかけに感情を抑えるようになりました。2年生の担任が「クール」と言いましたが、抑えていただけです。

入学時はとても強いチームでした。ところが、私の代になって「降格の危機!」となりました。危機感を持ったOBがしょっちゅう顔を出すようになったのはしんどかったです。ところが、くじ運に恵まれて、春季リーグ戦で優勝しました。

女の子に対する内気さは少々緩和されたものの、根本的には変わりませんでした。卒業間近、ある女の子に告白するも玉砕して、みっともない姿をさらしました。

大学受験は特に目指すところもなく、それなりのところに行きたい程度のものでした。それなりところに合格できずに浪人しました。しかし、明確な目標もなく勉強に力が入りませんでした。

それなりのところに合格しましたが、第1志望どころか第2志望、第3志望にも届きませんでした。もう一年浪人しようがと思いましたが、親は認めませんでした。その判断は正しかったと思います。

何となく持っていた自信が崩れ去った経験だったように思います。

大学生の頃

クラブにもサークルにも入らず、マージャンとアルバイトに明け暮れる生活でした。

ルールを知っている程度でしたが、初心者グループではなく上級者グループで卓を囲んでいました。当然、勝てません。それでも、4年間続けると、それなりのレベルにはなるようです。

4年生のとき、入学に初心者グループだった友人に誘われました。4年経っても彼らのレベルは向上していませんでした。うまくなりたいなら、身を置く場所で変わることを知りました。

身を置く場所の重要さは、わが子の吹奏楽を通して確信しました。当たり前のレベルが高いところに身を置くと、自然とそのレベルまで引き上げられるのだろうと思います。

GW、夏休み、冬休みはマージャン仲間と旅行です。旅行先でも主役はマージャン。正月はマージャンを打ちながら迎えていました。

スキー場で、夜通しマージャンして朝方ベッドに入ったら、ペンションのオーナーが起こしに来ました。「羊蹄山がこんなにきれいなのは月に2,3日しかない!見に行け!」と追い出されたことがあります。

4年間続けたアルバイトはホテルのボーイでした。性に合っていたようで、忙しいときほど生き生きしていると言われてました。仕事には自信がありました。社員以上だとうぬぼれていました。

そんな生活だったので、成績は散々でした。追試を受けて何とか4年で卒業しました。楽しい4年間ではありましたが、勉強を怠けたのは今でも多少の後悔があります。今、勉強意欲が高いのは、その後悔があるからかもしれませんが。

就職

某大手スポーツ用品メーカーに就職しました。特にできる社員ではありませんでした。目立った成果もありませんでした。それでも目をかけてくれる上司がいました。感謝の一言です。

キャンプに凝っていました。4WDで山の中を徘徊し、適当な場所を見つけてキャンプしました。季節などお構いなしに一年中やってました。地元の人はさぞかし迷惑だったと思います。お詫び申し上げます。

ある真冬の日のキャンプは、数年ぶりの大雪でした。朝、目が覚めたら、雪でテントが押しつぶされていて、天井が目の前20cmのところにありました。下手すると死んでたかもしれません。

妻とは職場結婚です。段取り・時間管理に優れた女性。実務面では私より優秀だと思います。妻が退職するとき、慰留したい妻の上司に呼び出され恨み節をいただきました。「お前にはもったいない」。その通りだと思います。

1回目の転職

会社の業績が厳しくなり早期退職制度が導入されました。目をかけてくれていた上司、懇意にしてた上司が応募して退職していきました。当時、仕事がストレスフルで、加えて気持ちの拠り所がなくなって、転職を決意しました。

そんな理由での転職はうまくいきません。

転職先は、カリスマ社長が創業したベンチャーでした。前職とまったく異なる企業文化に驚きました。前職の常識がまったく通じませんでした。それ以来、常識という言葉を使わなくなりました。

事実上の解雇が頻繁にありました。社員の回転が異常に早い会社でした。長期間勤める職場と感じられず、2年後に退社しました。

会社の責任ではなく、甘い見通しで転職した自分の責任です。

2回目の転職

カリスマ経営者が一代で築き上げた大企業と、中堅企業の2社から内定をもらいました。比較的容易に転職できる幸せな時代でした。実力と思いたいところですが、新卒入社した会社のネームバリューと、時代に恵まれたおかげです。

迷った末、後者の中堅企業に決めました。

出社初日に先輩から、前任者は上司の厳しいプレッシャーを浴び続けて鬱病になり、退職したと聞かされました。自分は大丈夫だと笑って流しましたが、2年後に同じことになります。

うつの精神症状、身体症状のほとんどに当てはまっていました。妻に勧められて精神科を受診しました。うつ病の診断を受けました。しばらく通院しながら出社していましたが、次第に休む日が多くなり、まったく行けなくなりました。

半年間の休職の後、復帰できずに退社しました。社長はわざわざ時間を作って下さり、ねぎらいの言葉を下さいました。今でも大変感謝しています。

「最悪の事態になる前に逃げて良かった」という気持ちが97%くらい。「嫌なことから逃げただけではないか?」という気持ちは今でも3%くらいあります。

引きこもりの頃

その後、約2年間引きこもっていました。そして、パチンコ依存症になりました。妻に見離されなかったのが人生で最大の幸福です。

ある日、アフィリエイトの存在を知りました。会社員として生きていく自信を失った私の最後の砦のように感じました。当時は競合が少なく結果を出しやすい環境でした。小さな成功をきっかけに意欲が出てきました。

マーケティング等を学ぶためのセミナーに参加するようになり、引きこもりの脱却へ向かいました。そこで出会う人たちは、会社員ではなく、経営者・起業家・自営業者でした。彼らを通じて、それまで知らなかった生き方や価値観を知りました。

収入は順調に増えていきました。ホームページ制作のスキルが向上すると、ホームページ制作の依頼をしてくれる人が出てきました。希望が膨らんでいきました。

心理学を学び始める

最初に触れた通り、カウンセラーになるためではなく、うまくいかない人生を変えたいとの想いから心理学を学び始めました。

ある自己啓発系のセミナーがきっかけです。たまたま見つけたセミナーの案内に吸い込まれました。受講料の数万円を用意できませんでしたが、どうしても参加したいと問い合わせたら、分割払いに応じてくれました。

修了後、運営スタッフをやらせてもらいました。とても勉強になりました。たくさんの人と出会いました。しかし、心地よい場所にとどまってしまうと先に進めなくなります。どこかのタイミングで離れるべだと気づいたのは、離れてしばらくしてからでした。

そこで出会った友人にすすめられた心理学研修が、心理を学ぶきっかけでした。その研修の講師が最初の師(大学で心理を教えている先生)でした。ただ、人生を好転させたい想いからの受講であって、カウンセラーを目指す気持ちはまったくありませんでした。

カウンセラーに

その研修では、合計600時間の座学と実習を行いました。その後、引き続き師から1年間指導を受けました。その頃からカウンセラーが職業の選択肢となりました。

最初は2,3名のクライエントからはじめました。すべての面接について、師のSV(スーパービジョン・指導)を受けられる範囲にしました。そうして徐々にクライエントを増やしていきました。形としては副業的に行っていました。

カウンセラーとして生きていこうと決めたのは、学び始めて5,6年が過ぎてからだと思います。それから10年以上が過ぎて今に至ります。

妻の支えがなければ、今には絶対にたどりつけませんでした。心理の学びを通じての出会いが、私をカウンセリングの世界に連れてきてくれました。

メッセージ

クライエントさんの中には、「人生が変わりました!」くらいの勢いで感謝を伝えて下さる方がいらっしゃいます。ありがたいことですが、クライエントさんが自ら考え、実践した結果です。カウンセラーは併走して支えたに過ぎません。謙遜ではなく本心です。

あたり前の話ですが、カウンセラーも悩みます。私も日々、人並み以上に悩んでいると自負?しています。過度なマイナス思考、マイナス思考の上にマイナス思考を重ねる反すう、考え方を変えようと思うほど深みにハマる悪循環。それらをしばしば繰り返しています。

マイナス思考、反すう、悪循環に気づいたときは、クライエントさんにおすすめしていることを行います。カウンセラーが自ら実践しているからこそ説得力があると思います。そう考えると、悩みも役に立っているのかもしれません。

『ニーバーの祈り』を唱えると、落ち着きを取り戻すこともあります。

God, give us grace to accept with serenity
the things that cannot be changed,
Courage to change the things
which should be changed,
and the Wisdom to distinguish
the one from the other.

神よ、変えられないものを受け入れる冷静さと、
変えられるものを変える勇気と、
その2つを見極められる知恵を与えて下さい。

原文は ニーバーの祈り – Wikipedia より引用、訳は当サイト管理者による。

「過去と他人は変えられない」「変えられるのは自分だけ」

正しいと思いますが、いかなる場合でも正しいか?と問われると、常にそうではないと答えます。

過去とは、過去の出来事をつなげて作った、過去の自分物語です。「私の過去は○○だった」と言ったとき、その物語を構成している出来事は全ての出来事ではなく、象徴的ないくつかをピックアップしたものがほとんどです。

ネガティブな出来事で構成するとネガティブな物語になりますし、ポジティブな出来事で構成するとポジティブな物語になり得ます。ネガティブな出来事が多い人生だったとしても、ここまで生き抜いてきたのは、ポジティブなものを持っているからかもしれません。

過去の出来事自体を変えることはできません。出来事や物語の再評価、再解釈は可能です。変える必要があるかどうかはともかくとして。

私の妻のエピソードです。ある活動の役員になりました。役員の中に、周囲から少し敬遠されている人がいました。Aさんとします。Aさんは考えをしっかり主張する方で、妻も初対面で近寄りがたさを感じたそうです。

そこで、こう考えたそうです。「Aさんとしばらく付き合うことになる。それなら自分から近づいてみよう」と。

話してみるとAさんは、全体のことをよく考えている人だったそうです。Aさん自身も、はっきりものを言うので周囲から敬遠されがちと自覚していたそうです。なので、無理に周囲との距離を詰めずに、自分のペースで取り組んでいるとのことでした。

妻はAさんに好感を持ちました。仲良くなるには至らなかったけれど、構えることなく楽に付き合えた、とのことでした。

他人を変えることはできませんが、自分の行動を変えることはできます。自分が行動を変えた結果、相手の行動が変わることがあります。

ストレスとは、元々は物理学の用語です。力が加わるとボールが歪みます。この状態のことをいいます。ハンス・セリエという学者が「ストレス学説」を発表して以来、現在のような使い方になりました。

ボールに力が加わると、ボールから跳ね返す力が生じます。強い力がかかると強い力が、弱ければ弱い力が返ってきます。

大きな変化を起こそうとすると大きな反発が起こる。小さな変化には小さな反発が。人間関係と似ているなあと思います。

もがけばもがくほど大きな反発が起きて動かない。小さな変化をコツコツ積み上げていくと無理なく、結果として早く目的地たどり着いた。決してめずらしいことではないと思います。

変えられるものと変えられないものを見極めて、大きな変化を生み出せなくても、小さな変化を積み重ねる。そして、気づいたら目的地にいた。そんな支援を目指して日々研鑽に努めています。