
「聴いてもらうだけでは意味がない」と言われることがあります。解決を求めて来談されるわけですから、提案やアドバイスがない、傾聴だけのカウンセリングに意味がないと考える気持ちは理解できます。
「聴いてもらうだけでは意味がない」とおっしゃった方が、ほぼ傾聴だけで満足されるケースも日常的にあります。そのような方に何が起きているのかを紹介します。
頭の中の解像度が上がる
頭の中がスッキリしないとき、「モヤモヤする」と言います。「モヤ」は「靄(もや)」でしょう。靄(もや)がかかってよく見えなかったものが、はっきり見えるようになるのが傾聴の意義の一つです。
架空の例で説明します。夫の言葉に過剰にイライラしてしまうと訴える妻とカウンセラーの会話です。

そのときの状況について、もう少し聞かせて下さい。

その日は午後から姑が来ることになっていました。
午前中、夫はゴルフの練習に行ってました。私は娘のスイミングに付き添いでした。

私と娘が帰宅して、数分後に夫が帰宅しました。
夫の最初の一言が「玄関、散らかっているね」でした。

最初の一言ですか。

そうです。

最初の一言がそれだと、確かにイラッとしますね。そう言われると、どのようなことが頭に浮かびますか。

「どうして!」と思います。

「どうして!」の後には、どのような言葉が続きますか。

「どうして!お義母さんのときだけ!」ですね。

どういうことですか。

夫は友人を家に招くのが好きで、来客が結構多いんです。夫婦共通の友人もいて、あまり気を使う必要もなく、私も楽しい時間を過ごしています。

それはいいですね。

姑だけは違うんです。夫は姑にとても気を使っています。

嫁姑問題はよく聞きますが、奥さまではなく、ご主人が気を使っているのですか。

そうなんです。

姑さんは、どのような方ですか。

はっきりものを言う人ですが悪意は感じません。私はあまり気を使わずにいられます。けれど夫は、姑にとても気を使っています。

そうなのですか。何がご主人に気を使わせるのでしょう。

それがわからないんです。聞いてもあいまいなことしか言わないので。

姑さんに気を使うご主人を見て、どのように感じていますか。

しんどそうにしているのが気がかりです。

そうですよね。
何が気を使わせるのかの「何」がわからないのは、奥さまをどのような気持ちにしますか。

そうですね。何と言えばいいのか。何か、さびしい気持ちになりますね。

どういうことですか。

夫婦って、一緒に家庭を作っていくパートナーだと思うのです。血のつながりはありませんが、情緒的な絆でつながっていると思っています。

夫がしんどそうにしているのに、何がそうさせるのかを言ってくれないのは、パートナーとしてさびしいと感じます。

なるほど。イライラの下には、さびしさがあるのでしょうか。

そうですね。さびしい気持ちをわかってくれないことに、イライラしているのかもしれません。
イライラの元には、さびしさがあるらしいことが明らかになっていきました。話すことで整理が進み、心の解像度が上がります。
思考から距離を置ける
話すことで、思考や感情から距離を置けます。胸の内をテーブルの上に置く、またはカウンセラーに預けるようなイメージです。
距離を置くと影響を受けにくくなります。振り回されずに冷静に観察できるようになります。冷静に観察できると、それまで見えなかったこと、気づかなかったことが、見えやすくなり、気づきやすくなります。

視野が広がる・俯瞰できる
距離を置くことで、対象だけではなく、対象と自分を取り巻く環境なども含めて俯瞰できるようになります。一面的ではなく、多面的に見る視点を得られます。見えなかったことが見えて、気づけなかったことに気づきやすくなります。
傾聴だけですべてを解決できるわけではありませんが、一般の方が予想する以上に多くのものが、傾聴にから得られるはずです。

未完了の感情が完了に向かう
「頭の整理は進みました。しかし、感情のコントロールができません」ということがあります。

おかげさまで頭の整理がとても進みました。

でも、些細なことでイライラするのは変わりません。

どのようなことでイライラするのですか。

例えば、歩道を歩いているときに、自転車にベルを鳴らされると、とても腹が立ちます。

ああ、わかる気がします。

そうですよね!
歩行者に道を譲れとベルを鳴らすのは、道路交通法違反ですよね。

そうですね。
私もチリンチリンチリンとやられて、イラッとしたことがあります。

そうですか。
私だけじゃないと知って、少しホッとしました。

でも、私の場合、イラッではなく、強い怒りなのです。

にらみつけたりします。
昨日は「うるさい!」と怒鳴ってしまいました。

自分でもやり過ぎだと思うのですが、怒りをコントロールできないんです。

昨日のことを聞かせて下さい。
ベルを鳴らされたとき、どのような言葉が頭によぎりましたか。

「ふざけるな!」「舐めてるのか!」ですね。

舐められているような気持ちになったのですか。

そうですね。
舐められてはいけないという気持ちがあります。
話を続けてもらうと、中学生の頃のエピソードが語られました。学校で先輩から暴力を振るわれて、やり返せず大変悔しい思いをしたそうです。今でも、ふとしたときに、そのシーンが脳裏によみがえることがあるそうです。

ベルを鳴らした相手に、そのときのリベンジを果たそうとしているのかもしれません。

「うるさい!」と怒鳴ったときは、身体はケンカする準備をしていました。
復讐を果たす機会を求めているかのような自分の気持ちに気づかれました。
このように、出来事に見合わない大きな感情は、過去の未完了の感情が元になっていることがあります。
未完了の感情を完了に向かわせるには、ただ頭を整理するだけでは足りません。そのときの感情にあえて触れて、あえて味わう機会が必要です。と言われてもピンと来ないと思います。
楽しかったことであれ、悲しかったことであれ、多くの経験は、時間的にも感情的にも過去のものになっています。その経験を思い起こしたときに感じるのは、「楽しかった(悲しかった)なあ」という過去の感情です。これを完了した感情とします。
未完了の感情とは、そのときの経験を思い起こすと、そのときの感情がみずみずしくよみがえってくるものです。時間的には過去ですが、感情的には今も鮮やかさを失っていません。その最たるものがトラウマです。
完了した感情は、何度も思い出したり語られたりして、色あせています。何度も空気に触れうちに劣化する生鮮食品のようなイメージです。
未完了の感情は、その人にとってつらい経験から生じます。つらい経験には触れたくありません。触れないので、みずみずしいまま保存されます。何かのきっかけで触れると、みずみずしい感情がよみがえります。
完了に向かわせるには、あえて自分から触れることで、鮮度を低下させていくことです。安心安全な場所で、そのときの気持ちをしっかり感じがなら話すことが、未完了の感情が完了に向かい、「手放す」プロセスが進みます。
自転車に大きなイライラを感じていた彼は、未完了の感情に関わる体験を話して、あえて感情に触れる機会を重ねられました。その感情がなくなるには至りませんでしたが、振り回されない程度になったところで終えられました。